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青葉若葉の候

青葉若葉の輝くこの頃になると、私はいつも芭蕉を思い出す。゛あらたふと゛のあの句が今更のように胸にしみてくるからである。「まいった、まいった」、とその句の素晴しさに参りきっている私なのである。芭蕉のことは以前にも書いているので(『神への郷愁』を参照)、ここであらためて書こうと思わないが、たかが十七文字の中に万言をついやしても現わし得ない、天地自然の深い調和を表現しきっているのには、全く恐れ入ってしまうのである。

私も詩人のはしくれとして、長い間創作活動をしているが、芭蕉の句の素晴しさにぶつかると、参ってしまうのである。宗教的な詩や和歌の中には、芭蕉も入り込めぬ私の世界があるのだけれど、世間に通用するものとしては、芭蕉ほどの作品はない。一生の間に芭蕉の句に追いついてみたい気もするのである。そこで、一年程前から句作もはじめてみたのである。

天地自然の調和の美は、今更、詩や和歌に表現しなくとも、そのままで人の心を深めてくれるものであるが、詩や和歌に表現すると、その美がますます生きてくるから不思議である。しかし、その詩や和歌も芭蕉のように、よほどすぐれたものでないと、かえって、その美を失ってしまう。詩や和歌のへたな作品は、その人の日記の代わりはよいけれど、他人に見せた場合、その人から自然の美を薄めてしまうことにもなりかねない。

その点、芭蕉のような人が一人いて、よい作品を残してくれたことは、日本人にとって大きな幸せといわなければならない。それは、芭蕉のみではなく、菊池先生や、牧水、茂吉等々の素晴しい歌人の存在したことも同様である。゛あらたふと青葉若葉の日の光゛に代表されるような自然の美しさ尊さを春夏秋冬に味わえる人間というものはありがたいものである。そういう人間が、食べる、着るというような本能だけを生活として生きているようだったら、生命を純粋に生きている動植物に劣ってしまうのである。

神さまはご自分を、見るものと見られる側との両面に分けてつくられ、人類を見る側の代表として存在させている。人類が山川草木という自然の姿をじっくり鑑賞し、味わってくれなければ、人類をつくった意味がはなはだしく減少する。神のみ心である愛と美と調和を、人間がよくよく味わい自らも実行していってもらいたいと、神々は望んでいるのである。そういう意味で、真の芸術は尊いのである。

五井昌久著『行雲流水』より