食欲とか性欲とかいう本能は、肉体人間にとって不可欠な本能ではありますが、この本能が神のみ心として許されるためには、やはり、神のみ心の現われとしてのあり方でなければなりません。これは根本的な人間観、人生観のいかんによって定まってしまいます。
人間はただ偶発的にこの世に生を受け、自分自身の欲望を満足させつつ生きてゆけばそれでよいのだ、という考え方で生活している人々にとっては、食欲も性欲もすべて業想念であります。なぜかと申しますと、その人々は神のみ心を現わすなんの働きもしていないからです。
根本の思想に神につながる何ものもなくして、食べたり性交したりしている人々、喰べたいから食べ、欲情が起こったから交わりをするというのでは、考える力を与えられている人間という存在だけに、かえって動物以下に成り下がってしまうのです。
食欲や性欲を業想念行為としない方法は、神への感謝と、その物、その行為に対しての感謝の想念であります。食事をすることによって自己の肉体が保たれ、自己の天命が完うされる道を歩んでゆけるという感謝の気持、交わることによって、二つの魂が融け合い、互いの長所が交流し合うという感謝の想念こそ、食欲や性欲を業想念としない方法なのであります。
そうした感謝の想念を根底にして、しかも世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りをその度ごとに改めてしてゆくならば、その人は神のみ心の中で生きている、業想念波動の中にいながら、業想念波動を越えている生活者だと云えるのであります。
五井昌久著『宗教問答』より