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自分をいじめずに立派な人間になる方法

「世界人類が平和でありますように」といった時には、過去世の因縁が消えてゆく姿として現われていながら、一緒に神さまのみ心の中に入ってしまうわけです。

神さまのみ心は大光明で完全円満なのだから、悪いものも不幸なものも、間違ったものもあるわけがない。世界平和の祈りをすると、自分が過去世の業を背負って神さまのみ心の中に入ってしまうわけだから、過去世からの因縁が神さまのみ心の中で消されてゆくわけです。

そういうわけで、消えてゆく姿で平和の祈りというように私は教えているのです。そこには悔い改めも、懺悔も反省もみな入ってしまって、スッキリ晴れわたっているわけです。

いちいち悔い改めよとか、反省とかいうのがあって、ああしなければいけない、こうしなければいけない、と思って、自分をいじめながら、片方では、立派にならなければいけない、いけないというように、二つに分かれているのではない。

ああ、自分は駄目な人間だナ、いつまでやっても悟れない人間なんだな、と思ったら、世界平和の祈りをするわけです。その時、一時、悟れない自分、駄目なんだという自分をひとまず置いたような形になったけれど、置いたと思ったものは、世界平和の祈りに背負わされていって、光の中に入っているのです。

だから、素直に、「ああ、これはみんな消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和でありますように」とやれば、そのまま消える率が早いわけです。そんなことで消えるかな、なんて思いながらやっても、これは消えるのです。しかし、素直にスッと入ったほうが消え方は早い。

いちいち批判する心というものは、こんなことで大丈夫かなと思う心も、その人の癖なんであって、その癖もかまわず一緒に神のみ心の中に入ってゆくのです。素直に入ってゆく人と、いかない人とは消え方の度合いが違うけれども、どちらにしても消えてしまうわけです。(中略)

謙虚な心をもって、しかも自分を責め裁かない。それは消えてゆく姿で世界平和の祈りで出来るわけです。謙虚な心が生きて、そのまま光になってくる。へりくだっていることがそのまま力になってくる。自分をいじめないで立派な人間になっていく。そういうように出来るのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えなのです。

五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より