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地の塩の本質を発揮せよ

マタイ伝第5章13ー16(省略)を解説している文章です。

イエスは弟子たちを地の塩にたとえています。塩というものは、日本でも浄めのために使用していますが、塩は、”し(水)”、”ほ(火)”という言葉でありまして、水と火の調和したものである、ということで、調和あるいは浄めの意味をもっているのであります。

ユダヤでもこの塩は幕屋※1の神殿の供え物に加えられており、(※1まくや:幕を張りめぐらした小屋)新生児を清めるためにも用いられています。また塩は、普遍の節操と友情とを象徴し、今日に至るまでアラブ人はともに塩を食した者を友とみなしているのです。実際的には塩は防腐力があり調味の効があるので、そういうすべてを総合して、イエスは真の弟子たちを、汝らは地の塩なりといったのであります。

汝らがもし、そうした塩の効力を発揮しないままでいるようであれば、それはもうこの世に用のない人間として、人々に捨てられてしまうのである。汝らの天命は地の塩のように、神への不変の節操をもって、人びとを浄め、調和させ、カルマに汚されてくさらぬような人びとを、多くつくりだすことだ、といっているのであります。

そしてその後で、汝らは世の光なのだから、汝らは多くの人にあって、汝らの光を世の人びとに当てて、人びとをかがやかせ、汝らの善い行為をみせて、人びとに天の父を崇(あが)める心を起こさせよ、ともいっているのです。

このイエスの説法を聞いていますと、弟子の一人一人が、各自自己のために生きているのではなく、天の父のためにあるのであり、地の人びとのために存在しているのである、ということをはっきり教えていることがわかります。(中略)

イエスの言葉は真理の言葉です。汝らは光なのだから、人の前で照らせ、燈火を灯して枡(ます)の下に置くものはない、燈台の上に置くのだ、というのです。

人を救おうとしたら、自己卑下をしていてはいけない。社会人類のためになろうと思ったら、おずおずしていてはいけない。影で光っていないで、堂々と人前に出て、神の子の光を照らさなければいけない。全くその通りです。

善人が強くなって、真理の光明を堂々と照らし出すようにしなければ、この世の闇は晴れることはありません。今こそ全くその時代なのです。善人が家にひっこんでいて自己卑下ばかりしていないで、堂々と人びとに真理の光明を照らし出す必要が、今日ほど必要な時はありません。

五井昌久著『聖書講義』より