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人間の想念が自然界に及ぼす影響について③(完)

(つづき)
今はまだ観音さまの削りかけで、屑も散っていれば、形もまだ整っていない。「なんだ人間神の子だなんて言ってもダメじゃないか、こんな争いがあったりして・・」「なんだ、こんなにきたならしい、汚れているじゃないか」って切り屑が散らかっている姿、そういう姿が今出ている。

これをきれいに完成させるのは、守護霊守護神と肉体人間との協力です。屑をきれいに片づけるのも、肉体人間と守護霊守護神との協力です。そして出来上がった時に、「ああ素晴らしい、神さまのみ心は素晴らしいなァ、人類はこんなに素晴らしい」と非の打ちどころのない人間像が出来上がり、動物も植物もそのまま納まってゆく。天命が完うされるわけです。

今はまだ植物も動物も人間も天命が、本当に完うされてない、完成への途中なのです。それは一人の人間についてもいえます。一人間がいます。まだ、赤ん坊。なんにも出来やしない。偉いかどうかもわからない。三つだ、四つだ五つだ……一年生だ、中学生だ、大学生になった。まだ未知数です。

これが大人になり、社会に出て、立派な働き、立派な仕事をして、亡くなるまで、これが本当に立派な人間かどうかわからない。全部を通じなければわからない。五十まで素晴らしい人間で、六十からバカになっちゃうかもしれないし、五十まではダメだったのが、五十から素晴らしくなる人もあるかも知れない。

これは全部を通してみなきゃわかりませんですよ。まだ途中の場合には、人間は評価が出来ないんです。三十の青年をみて、「あいつは駄目じゃないか、なんにも出来やしない」といったって、これから素晴らしく変わってゆくかもしれません。

私なんかでも、情熱的な、いいことばかり考えていたんですが、まァ平凡です。霊能力もなんにもないんだから。ところがパッと変わって、まるっきり変わっちゃった。だから昔の人がみたら、どうしてどう変わったか、まるで見当がつかない。そういうふうに変わっちゃうわけです。

人間はいつ変わるかわからない。どんなバカみたいな人が、いつ立派になるかわからないし、悪いことばかりしていた人が、いつ立派なことをするかわからない。人間は最後までこなければわからない。

それと同じように、神さまの世界も、最後までみないとわからない。神界ではちゃんと完成されているけれど、幽界と肉体界では完成されていないのです。それが完成される時が地球天国です。
(おわり)

五井昌久著『質問ありませんか?〈2〉聖ケ丘講話』より