これから肉体の人間のご機嫌をとることを一切、私はやめますよ。そんなことをして何になるか。
ただ、その人の本心が開くために、その人が本当の人間になるために、本当に神の子の姿を現わすために、私は懸命に努力しますよ。
そのためには甘やかした方がいいときには甘やかすかもしれない。愚痴を聞いてあげるほうがその人の魂が開く場合には、「ああそうかね」と聞くかもしれない。
しかし、そうでない場合には、「このバカヤロウ」と怒鳴りつけちゃいますよ。そういうようになりました。
だから、怖いんだか優しいんだか、自分自身にもわからない。怖いときにはうんと怖いし、優しいときにはうんと優しい。それがいいんです。
今までは、みんなが本当に消えてゆく姿で世界平和の祈り(をする)、という道をつけ、開いて、そして今度はその道の中に入ってきた。相当に出来てきたから、幹部のいわゆる古い人たちはもう、消えてゆく姿さえいらないのだからね。
とたんに空(くう)にならなきゃ駄目。パッと空になれるような修行をしなければならないと思うのです。
そこで私は、宇宙人が現われて、少しあの二人の女性に手がかからなくなったら、幹部の再教育をしようと思っています。ビシビシ尻をひっぱたいて(笑)鍛え直そうと思っている。
今まではたががゆるんでいた。だから鍛えなおして、本当の人間にしようと思っている。どこの宗教家が見ても、唯物論者が見ても、どこから見ても、ああ五井先生のお弟子は立派だなあといわれる人間に全部しようと思っている。
ああでもない、こうでもない、ナメクジのようなフニャフニャした者は、いたってしょうがない。みんな叩き直そうと思っているのです。覚悟はよいか(笑)ってなことになるんじゃないか。(拍手)
愛するということは、その人の本当にいいものを、いい持ち味を出さなければ、愛することにならないんですね。その人の愚痴を聞き、業想念を聞いて、ヘイヘイ言ってたんじゃあ、それは愛することではなくて、弱虫ということです。
だから、その人の長所、持ち味をズバリと出すように、私はこれからやることにしました。そうすればみんなが立派になります。怒鳴りつけるときには怒鳴りつける、優しくするときには優しくしますから、どうぞそのおつもりで、みんな張り切ってください。
五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より