人間の本心は常に天にあるのです。神のみ心と一つになっているのです。
本心そのままに生活していれば、そのひとは自由自在であり、平安そのものでいられ、周囲へのよい影響を与えつづけていられるのです。
業想念波動を土台にして、しかもそうした業想念波動を消えてゆく姿として、祈りの中で消し去ってしまい、ひたすら生命(いのち)の本源であり、本心そのものである、神のみ心の中から、自己の生活をいただき直すことが大事なのです。
心が、自分の頭の中にあると思ったり、心臓の辺りにあると思ったりしないで、自分の心は神のみ心と一つのところにあるのだ、そして自分が自分の心だと思っている心は、実は、善も悪も共に含んで、玉石混交のこの世の産物である業想念なのだ、だから釈尊の言われたように、空になるつもりで、その業想念を現われては消え去ってゆくものとして、世界平和の祈りに投げ入れて、祈りを起点として、改めて、行動を起こす、ということにしよう、と思うとよいのです。
業想念波動で想うことを、自分の心がこう想う、などと決めてかかってはいけません。よしんば、それが正しいことであっても、一度は祈り心の中で反すうして、定めなければいけません。
常に祈りの中から判断してゆきますと、公正な、適当な答えが出てくるのであります。
なぜかと申しますと、自分の思いの奥の本心が開いてくる前に、すでに背後で常にその人を見守っている守護の神霊が、その人に祈り心を受けて、正しい方向にその人を導いてくれるのです。そして同時に、本心の開発もなされてゆくのです。
人はよく、「私はこう想う」と、自分のことをさも自信あり気に言いますが、その私と、その人が言っている私は、本心の現われの私ではなくて、業想念波動の私なので、それは過去世から今日までの様々な習慣によって生まれた性癖、つまり業想念波動に過ぎないので、神の子としての私ではないのです。
真実の私というものは、神のみ心に通ずる、本心の現われている人間でなければなりません。単なる業想念波動では、やがては消滅してしまうのであります。
永劫に消滅しない人間、永遠の生命につながる本心を開発した人間こそ、神の子としての人間であり、地上天国に住み得る人間なのであります。
人間が本心を開発した姿でこの世に在る時は、肉体波動も霊妙で光明に充ちております。ですから、すべての人の本心が開発された時は、この世は光明に充ちた、自由で明るい、地上天国となるのでありまして、争いの想いや自分勝手な想いのような、業(カルマ)の存在する場所がなくなってしまうのです。
五井昌久著『愛すること』より