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芸術精神と宗教精神⑤

(つづき)真の極致、善の極致、愛の極致は美であります。

女性の肉体の美しさを画いても、その画家が肉体の奥にある本然の美、女性の本質を画かなければ、私たちはそれを美しいとは言わないのです。それは五感の美しさ、消えてゆくはかない美しさであり、天に通じる美にはなり得ないのです。(中略)

人の心を高める美しさ、浄める美しさ、勇気を与えるものは、本当の美であり、善です。そして、芸術作品なのです。人間の心を、感情を堕落させてしまう、もの天から離してしまうもの、これは真の芸術ではありません。

高い音楽、高い文学は宗教とピタリと一つです。音楽は楽器を通して、人の感情に直接しみこんで光を与えているのです。聴いていて「いいなあ」と感じるのは、その調べの中に神を感じているのです。

まことの芸術というものは、魂に触れてくるもの、五感の感覚ではない、何か魂が澄み清まるものです。何べん聴いても、見ても、読んでも、飽きず、そのたびに新しい生命を感じ、高いひびき(神)を感ずるものなのです。

人間は何故この世に生まれてきたのでしょうか?キリスト教では、神の栄光を現わすためであるといいます。

では、神の栄光とは何であるか。それは神の美しさ、高い調べなのです。それを地に現わすために、人間は生まれてきたのです。今はその過程にあるわけで、周囲は汚れていますが、今に澄んできれいになります。

目に見えない完全なものが、形ある完全なものにならんとしているわけです。その途中をつかんでしまって、きたない、苦しいと、迷っているのです。これではいつまでも、真の美しさを現わすことはできません。

病気で寝ていようと、貧乏であろうと、最後の一分でもよいから、心が真、善、美に満ちていて、外に現わせたら、それで神の栄光を現わしたことになるのです。

いくら地位があり、金があったとしても、真でも善でもない生活をすれば、その人の人生はゼロです。一分一秒を惜しんで、心の中に高い神の光を輝かせ、光のある生活をすることが大切です。(つづく)

五井昌久著『生命光り輝け-五井昌久講話集1』より