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神我一体の境地に入る一番の近道

神は形なく姿なきもの、とのみ思っているのは、いまだ捉われである。

神は本来形なく、姿なき生命の原理ではあるが、その働きは、時に人格神ともなり、形ある人間として、われわれの前に出現することもあるので、その点、守護霊、守護神の存在を堅く信じて、常に守護霊、守護神に感謝していれば、その時々に応じて、神の愛は、種々の人間や事物に託して、その人を援助せしめるものである。

信仰はひとつのものや形に捉われたら執着になる。

悟ろう悟ろうとして、肉体を傷つけ苦しませて、邪魔者扱いにしている人びとがあるが、私は、それはかえって肉体に捉われているものであると思う。肉体もやはり神の生命が必要あって存在せしめているものである。

肉体の世界に住む以上、肉体も大事に丁重に扱うべきである。肉体生活を損ぜず、傷つけず、肉体生活の喜びを味わいながら、心乱れぬ人間にならなければ、肉体生活における宗教の意義は非常に薄れる。

肉体生活を蔑視する宗教や信仰は、この現実世界を救うことは出来ない。

肉体生活をそのままに、心が安心立命してゆくためには、自己が真、善、美の想念と行動をしながら、守護霊、守護神への祈りを、毎日欠かさぬようにしてもらいたいと望んでいる。

それが神我一体の境地に入る一番の近道である。

五井昌久著『神と人間―安心立命への道しるべ』より