(前略)真実自分を愛するならば、自分を永遠に生かしきってゆかねばならぬ。永遠の幸福を自分のものとしなければいけない。
変化変滅し、消えてゆく姿である、自分やその環境に対して、その変化変滅の中での楽しみを自分のものにしようとする、そういう消えてゆく姿でしかない自分の地位や立場を優位にしようとする、そんな在り方が自分を愛することであると思ったら、とんでもないことで、かえって、自分を滅ぼしてゆく行ないにすぎない。
これがわかり、この真理が行じられるようになれば、個人も人類も永劫(えいごう)の救われに入るのであるけれど、これがなかなかむずかしい。
自分を愛するということは、肉体である自分の感情を慰(なぐさ)め、喜ばせることである、と大方の人は思いこんでいる。(中略)
真実に自分を愛し、国を愛し、人類を愛するということは、この現われの世界の根源の姿、いわゆる神なる自分、神の集合場としての国家人類というものの姿を、真っ直ぐにこの地球世界に現わし得る自分なり、自国にする行ないというのである。
神と人間との愛と、人間と人間との愛が十字交差の真中において一つになってゆく行ないを、真実の愛というのである。
私はその行ないを易(やさ)しくするために、消えてゆく姿で世界平和の祈りという生き方を提唱しているのである。
この世のすべての不幸災難や、自分の心の起こる悪い想いや嫌な想いは、すべて過去世から今日(こんにち)までの、神のみ心、本心を離れていた想念行為の消えてゆくときに起こる姿である。
そして、ひたすら、世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りの中で、神の慈悲の大光明で消し去っていただく、という方法を、自分を愛し、人を愛する方法として行なっているのである。
そして、真実の自分、真実の人類の姿が一日も早く、この地球界に現われ出るように、多くの人々のこの道の実践を願っているのである。(後略)
五井昌久著『失望のない人生』より