(つづき)しだいに年月が経ってきますと、いただくことも出すことも、それは感謝だけであって、金品に対しての羞恥心が薄れてまいりました。すべてが自然に振舞われるようになってきたのです。
この世における金品のもつ役割の大きさというものが、はっきりわかってきますと、昔の私と同じように金銭を嫌悪する片寄った精神主義者では、真実の仕事はできない、としみじみ思えてきたのです。あまり金品を嫌がっていますと、どうしてもその人に金品が集まりません。といって、金品に執着していましては、その人は金品の本質を生かして使うことはできません。
この世における金品の役割は、本来は、この世の生活を豊かにし、美しくし、人々の心を平和にするにあるのですが、精神的に美しい人々が金品をいやしんで遠ざけようとし、欲望に充ちたような人々が金品を近づけようと運動しますので、金品の本来性がそこなわれてしまい、金品は人間の欲望の道具のようになってしまったのであります。
これからは、精神的に美しい人々の手に金品の富を得さしめるような運動がなされねばなりません。心の善なる人が富み、想い貧しい人が貧しい生活をするのでなければ、この世に真の平和は来ることはありません。金品の本来の役目が果たせないからです。
物質は本来、人類の心を富ませるためにあるのです。ところが、物質に富める人が意外と貧しい想念をもっていたりするのですから、この世に、真に富める者が少ないということになるのです。
心の善なる人、心の美しい人がこの世的にも富者(ふうしゃ)である、ということになれば、自(おの)ずから他の人をも潤さずにいません。そして、他の想い貧しき人々も、その富者にならって、想いを豊かにする方向に向かってゆくに違いありません。神と富とに兼仕(かねつか)うのです。神と富とは本来一つのものであるからです。
なぜかと申しますと、神はすべてのすべてであり、あらゆる物を生み出す根源の力であるからです。私たち人類の持っている富は、すべて神が生み出したものであり、人にはその富を、各人の過去世からの因縁によって、持たせてもらい、使わせていただいているだけなのであります。
そう考えてまいりますと、これは自分の財産だ、これは自分の土地だなどといって、欲深く抱きしめただけでいるなどは、まったく神のみ心を知らない所業であるのです。こういう人々は、せっかくの物質的富を与えられながら、一番大事な心を貧しくしている人々なのであります。
先祖の財産をめぐって争い合っているような親族間の想念の波などは、実に醜悪の限りであって、神はそうした人々から未来の富を取り上げてしまわれるでしょう。神が取り上げるというより、そうした人々の貧しい想いは、自ずから富から遠ざかっていってしまうのであります。生命が神からきていると同じように、物質も神からきているのです。(つづく)
五井昌久著『光明をつかむ』より