人生における守護の神霊の導き③(完)

(つづき)私は考えた。言われたとおり、素直に手を握っちゃおうかと考えた(笑)

しかし、あとで恥をかいたら大変だ、と思案しているうちに、知性的に、ああ、これは常識ではそんなことをしてはいけないんだ、絶対いけない、必死になって動く手を押さえつけた。

そうすると「ヨーシ及第!」というわけです。ああ、よかったと思ってね。神さまが試したのです。そこで握っていたら、現在の私はなかった。握ったらそれでおしまいになってしまう。そういうこともさせるのです。ですから、あくまで常識、良識を土台にして、判断してゆくことが必要なのです。

もう一つの質問の、守護霊守護神がやらせているんだ、ということでしたが、大きい意味ではそうなのです。

しかし、普通常識の話しにすると、守護霊守護神がついていてやらせるのなら、Yちゃん殺しも守護霊守護神がやらせたのか、十七才の少女が夫を殺しちゃったのも守護霊守護神がやらせたのか。そうだとしたら世間の人は、その教えは邪教だと思うでしょう。神さまが殺人をさせるわけがない。わかりきったことです。

だからそういうことを言っていいか悪いかということは、常識の世界のことです。それがわからない人は、常識をもういっぺん勉強しなければだめです。

守護霊守護神はあくまで守っているけれども、肉体側の想いが業でへだてられているから、距離が離れてしまっていて、守りが届かない。肉体の人間の想いも業が厚いと届かない。

そこで私たちのような宗教家の存在が必要なのです。「先生、助けてください」と来ると、パーンと拍手を打つと、業がフッと消えて、守護霊守護神とつながるのです。そしてまた業が出て来て離される。業に巻き込まれてしまう。

そこで私のような存在が必要なのです。あるいは友達が集まって祈ったりして、助かるわけなのです。そのために聖ヶ丘の会とか、各地の座談会によけい出たほうがいいということになるのです。

守護霊守護神の存在を知らせたり、それをへだててしまっている業想念を取ってくれたりする人を導師というのですが、そういう人が必要なわけです。導師はいつも、謙虚な心と真摯なる努力、それに澄んだ知性が必要なのです。なるがままではありません。

知性は常に澄み切ったものに磨いておくことです。神と人間にも書いていますが、守護霊守護神が守っているんだけれども、あくまで肉体人間が主体であって、守護の神霊は後ろから応援するのだ、と書いてありますね。

巾跳びをするのでも、自分で飛ぶのです。それを背後の人が持ち上げたり、飛ばしてくれたりしたのでは、面白くもなんともない。自分でやるところに面白さがある。

自分が一所懸命人事を尽くしてやって、それで守護霊守護神に加勢を頼む。そうすると助けてくれる。三者一体になって、自分の持てる力を充分に発揮出来る。天から与えられた使命を完うさせてゆくことが出来るわけです。

そこに消えてゆく姿の教えがあったり、世界平和の祈りがあって、うまくゆくのです。

全託とかおまかせとかいうけれど、本当の全託になるためには、大変な努力、精進がいるのです。真剣なる修行があるのですよ。(おわり)

五井昌久著『質問ありませんか?―聖ケ丘講話』より