(前略)悟りとは、本心と自分とが、全く一つになるということなのであります。
迷ったり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、哀しんだり、恐れたり、執着したりする想念というものを、はっきり、自分ではないと、思い定めることなのであります。
自分とは、神と一つである本心そのものであり、諸々の想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。
自分が自分の創造主であることを知ること、つまり、自分が神の使命達成の一員として、神の世界(天)から天降って、この地上界に神の生命を華咲かせつつある者であることを知ることなのです。
悟りとは、自己の本心を光り輝かせること、生命を礙(さわ)りなく、生かし切れる状態をいうのです。
悟りといっても、種々と段階のあることで、瞬間的に自己の本心を現わしたり、生命を生かし切ることも悟りでありますが、常に変わりなく、本心そのままで生き抜いている人があるとすれば、その人は釈尊と同じような正覚を得た人というべきでありましょう。
本心そのままで生きている人の状態は、どのような状態かと申しますと、慈悲(愛)深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はっきり区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といったような人になるわけです。
覚(さと)る、という文字は、眼ざめる、ということ、心の中を見る、ということでもありますから、正しく眼ざめる、ということは、本心そのまま、ということでもあるわけです。
本心は神の心であります。そして、神は光であるので、本心そのままで生き抜いている人は、光り輝いている人であります。
その光は霊眼の人には見えますが、他の人には雰囲気としてわかるだけでしょう。
しかし、そうした人、あるいはそれに近づいている人は、その人自身が言葉でとやかく言わなくても、その日頃の行為の中に、その光が、現われずにいないと思います。(後略)
五井昌久著『霊性の開発』より