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宗教と科学の行き着く先にあるもの

この世の中には不思議なことばかりで、そんな事物を取りあげてみても、不思議でないものはありません。とりわけ最も不思議だと思うことは、こうして人間が生まれ生きているということです。

この人間の生命というものが、一体どこから来て、どうしてこう自然に働いているのか、宇宙というものが知らない間に出来ていて、個人だの国家だの民族だの、人類世界だのというものが自然に出来ていて、こりゃまあ、一体どういうことなのだろう、と誰もが不思議がらないではいられないだろうと思ってみると、案外そうではない。

そんな不思議さを感じたのは、少年少女の頃だけであって、成人してしまってからは、そうした不思議には、一切不感症になってしまっている人たちが、意外なほど多いのであります。

手品使いがどんな不思議なような手品を使っても、それは種があることで、知ろうと思えば必ずわかることなのですが、宇宙大自然の神秘、生命の不可思議さというものは、人間がどのようにして知ろうとしても、その全体を知ることはとうてい出来ない。

その科学体験や、宗教体験によって、神秘のいくらかずつは人類が知ってきてはいるけれども、それは宇宙大自然のほんの一部ずつであって、全体から見たら、知ったというにも値しないほどであるかも知れない。

それは人間自身に一番身近である、自分自身の生命というものの実体がまるでわかっていないということで、その知ったという範囲のわずかであることが知らされるのです。

この神秘性、不可思議さを、現われている面から探求してゆくのが科学であり、内面的に心の中に入っていって、この神秘性を追い求めるのが宗教であるのです。

ですから宗教も科学も、ともに宇宙大自然の実体、いいかえれば、神の実体を知ろうとしての働きであって、その行き方が相違しているというに過ぎないのです。(後略)

五井昌久著『宗教と平和』より