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闇の思想を光明思想に変える生き方①

(前略)一つのものごとに把われていては、全体が見渡せません。

把われを放った時、心も体も自由になるのです。

そして真実の姿が見えてき、真実の働きが出来てくるのです。

それを釈尊は空といい、老子は無為といい、キリストは神への全託といい、私は消えてゆく姿で世界平和の祈り、といっているのです。

だが、ただ空になれとか、無為になれとか、把われを放てとかいっても、業想念波動の輪廻は、ちょうど録音盤に録音されて巡っているようなもので、中から押し出されて思えてくるのだし、行為になってくるので、なかなか先覚者の言うように、空にも無為にもなれないのです。

だからといって、なれないでよいわけではないのです。どうしても空の境地、無為の境地、全託の境地にならなければならぬ時が、地球人類の上に迫ってきているのであります。

新興宗教の現世利益の願望達成や、権力欲の満足などという、浅い生き方ではどうにもならぬ時期が間近に迫りつつあるのです。私はその事実を心配しているのです。

いいかげんな宗教観や世界観では、とうてい来るべき地球の危機を防げるものではありません。

こういう時にあたって、一人一人が、その場その時々だけの幸福感だけで生活していたのでは、地球人類の滅亡から逃れられるものではないのです。

うっかりすると、地球人類の一人であり、国民の一人であるということを、忘れてしまう人がいるようですが、国家の運命も人類の運命も、自分自身の運命と一つであることを忘れてはいけません。(つづく)

五井昌久著『宗教と平和』より