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闇の思想を光明思想に変える生き方②

(つづき)私が口をすっぱくして申しているように、現在の人間には、国家を離れた一人だけの運命などというものは考えられもしないのです。

だからといって、一人の人間がどうあがいたって、国家や人類の動きのままに動くより仕方がないのだというような、諦めの生活では弱すぎるのです。

国家の運命も人類の運命も、一人一人の人間の集合した力によって、どうにでも動かし得る流動性をもったものなのです。

この世が苦のシャバであり、穢土であるという想いでも、自分たち一人一人の生き方によっては、そうでなくし得ることも出来るのです。

それが光明思想的な生き方なのです。

光明思想というのは、神のつくり給うた世界に悪や不幸があるわけがない。神の世界は光明燦然とした世界である、というのであり、人間はみな、完全円満なり神の分生命なのである、という思想なのであります。

そこで、この世における悪や不幸と見えるすべてのものごとは、人間が神のみ心から離れている、その隙間から起こってくることで、人間の想念の持ち方によっては、そういう悪や不幸の世界はなくなってしまうのである。だから、常に善いことのみを思い、明るいことのみを思い、悪や不幸に思いを把われないようにすることが大事なのである。実在としては悪や不幸はないのだ、というのです。

私は、その無いというところが、この現象世界に生活している人々にとって、無理に思わなければ思えないところなので、消えてゆく姿というように、順次光明思想に変えてゆこうとして、消えてゆく姿の行き先を、世界平和の祈りという、神の人類救済の大光明である祈り言の中に定めてしまったのであります。

人間の習慣の想いというものは大変なもので、いくら悪が無い、不幸が無い、病気は無いといっても、現在眼の前で幾多の事例を見せつけられていますと、理論としてはわかるが、実際には思えないということになり、心から湧き上がってくる信念的想念にはならないのです。

この世の人々は、みんな神の子で善い人ばかりなのだ、と思おうとしても、現実にだまされたり、悪い行ないの人を見たりすると、みんな善い人とは思えなくなってくるのです。また、病気や不幸な出来事に会うと、不幸や病気はないのだ、という気持ちが揺らいできてしまうのです。

そういう心の動きを、私は多くの人の体験で知っておりますので、無いという言葉を使わず、病気も不幸も災難も、あなたの間違った想念も他人の悪い想念も、みんな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であって、消えるにしたがって本心の姿、善なる真なる神のみ心が現われてくるのですよといって、世界平和の祈りの中に、すべての想念行為を投入させるように、人々を導いているのであります。(つづく)

五井昌久著『宗教と平和』より