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誕生と往生②

(つづき)

こうした真理がわからない限りは、肉体の死に対する恐怖がなかなか去ろうとはしないでありましょう。

また、あの世の生活が自己にとって、幸せになり得るものかということ、幸福な境界になり得る方法を知っておかなくては、これも死への恐怖を超ええることはできないのです。

このことは人間にとって、実に大事なことであって、ただ単に神さまといって信仰していれば、死んだら直ぐに神様のみ許に往かれると思い誤っている人や、神様の存在は信ずるが、あの世があることなど信じられぬ、という人々は、よほどその人の想念行為が、愛と真の道にかなっていないと、立派な往生を遂げることはできないのです。

白光誌で書いたように、往生は誕生と同じように、本来は祝事であるのです。

それはどうしてかといいますと、ある霊魂が赤児として誕生することは、自己の修行のためであると共に、人類の進化の一つの役割を受け持たされてなされるので、いかなる悪事をなすものも、不幸なる生涯を送るものでも、それはみな、自己の進化の過程であると同時に、人類進化のための一こまであるのです。

それは神界と肉体界をまっすぐつなぐための”トンネル掘り”のようなもので、掘りあがるまでは、皆が泥だらけになって働くわけで、自分の持場が終わって、体を洗い、すっかりきれいな姿になった人と、まだ持場についたばかりで、真っ暗な中で夢中でシャベルをつかっている人との相違があるだけで、掘りあがれば、神界の光明がそのままそのトンネルを通して、この地上界に輝きわたり、肉体界そのままが神の世界になるわけなのです。

(つづく)

五井昌久著『宗教問答 (続)』より