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想い以前のひびきとしての祈り

(前略)世界人類が……とやっていても、やっているうちに本当になって来ます。

やっているうちに、知らないうちに想いが祈りに入ってゆく。

なぜ入ってゆくかというと、世界人類の平和を祈るその祈りの中には、神さまの光が充満しているんです。

自分が思うと思うまいと、グーッと光の中に引っ張っていかれちゃう。

だからどういう形でもよい。

寝ながらでも世界平和をやっていたら、そのままよい気持ちで寝ちゃいますよ。

眠れない、なんていうことはありません。

言葉として世界人類、世界人類と思っているからダメなんです。

声に出る言葉じゃない。

想いの前のものなんです。

世界人類の平和というのは、そこのところが難しいんです。

想い以前なんだ。

なぜならば、本心の中では世界人類は平和なんです。

そこへ帰るだけなんですよ。

帰るだけなんだから、初めっから平和なんです。

初めっから平和なんだけど、平和でないように見えている。

それは業想念が消えてゆく姿として、まるでめちゃくちゃな世界が出ている。

業想念の中で、政治が悪い、アメリカが悪い、ソビエトが悪い、あいつが悪い、あの会社は間違っている、なんていろいろ言っている間はダメなのです。

そんなことはどうでもよい。

やりたい者はやらせておけばいいんです。

他の国はどうであろうと、こっちのことはどうであろうと、そんなことは自分たちで言ったってしょうがないんだ。

それよりも、世界人類が平和である、という想いの中、神さまのなかに入っちまうことです。

入っちまうと、なんだかんだ(想い)というのは空回りしてゆくんです。

そして祈りの光明が今度は逆に地上界に天下ってきて、世界を浄めるんですよ。

だから世界平和の祈りをやる人が多くなれば多くなるほど、戦争の危機も遠のくし、天変地変もなくなるし、すべてはよくなるんです。

それを知らせたくて、私はしょうがない。

だんだん、だんだん、みんなわかってきました。

どんな理屈を言ったってダメです。

宗教なんか理屈ではありません。

天界ではこうなって、こんなで……、そんなことはどうでもいいです。

神さまの世界はこんなで……、そんなことはどうでもよい。

いくら理論的な頭でゴタゴタこね回したって、ダメ。

そんなことはどうでもいい。

ただ自分たちが神さまにつながればよい。(後略)

五井昌久著『光明の生活者-五井昌久講話集3』より