(前略)
根本から言えば、すべてを神様のみ心に任せてしまう。
みんな自分の本心の中に、み仏を持っているんですよ。みんなみ仏なんです。
ただ、汚れみ仏なんだ。それがだんだん流れがきれいになってくると、仏がそのまま出てくる。汚れがあるうちは、いろんなことをやるんです。
悪いことをするのも汚れだし、いいことにとどまっているのも汚れだし、考えなきゃいられないのも汚れだし、人を疑うのも汚れだし、どっちにしたって、大した違いのない汚れなんですよ。
その汚れが、だんだん世界平和の祈りをやってるとなくなっちゃって、きれいな神様の心そのままの、清々しいいのちの光が流れてくる。
そうすると、考えもしないで知恵がパッと出てくるから。考えもしないで、パッと出てくるんです。それは、私など体験者だからよく知っている。
私なんか何も考えない。ここにいて、何を話そうとも考えていない。どういう話をしようとも考えない。
(中略)
自分で考えるとか、わざわざ任せなけれないけないとか、考えなきゃいけないとか、考えているのは、本当は業なんだよ。
それは、「いっぺんにそうなれ」と言ったって出来ないので、順序だからが仕方ない。
だんだん慣れてくると、考える量が少なくなってきて、神様のほうの知恵が、そのまま自分の考えとして写ってくるんです。
だから努力をするときには、努力をしなければならない。努力したことが報われて、努力というような形ではなく、自然の形になってくる。
(後略)
五井昌久著『講話集〈4〉想いが世界を創っている (講話集 4)』より