(つづき)
霊魂とか肉体とかいうと、ふわふわした火の玉と、こうした顔や姿をした物質体という区別で考えたくなりますが、実は両方ともに神さまのみ心の響き、つまり大智慧、大能力をもった生命の波動の表われなのでありまして、霊とは神のみ心そのものが、そのまま障害なく働いている相なのです。
ですから神道では、一霊四魂といって、一つの霊が、幸魂、和魂、荒魂、奇魂というように、異なった波動を持った働きとなり、その四魂の調和した時に、その人格が完成され得る、というのであります。
人によって、荒魂の主となっている人もあれば、和魂の主になっている人もあるのですが、どちらの人にしても、四魂が調和して働かなければ、その人の人格というものは完成されないのです。
俺はどうせ生まれつき気が荒いんだ、といって威張っているようでも、私は生まれつき気が優しすぎるの、と自分を引っ込めすぎているようでも、その人の人格は完成されていないので、四魂の調和ということが大事なのであります。
一霊つまり人間の本心のほうから考えますと、単なるこの世における幸福などということより、完全なる人(霊止)をつくりあげることが大事なのでありますから、その完成のために必要な状態を常に、各人のために用意するわけであります。
(つづく)
五井昌久著『神は沈黙していない』より