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無名は天地の始めなり②

(つづき)

また名にしても同じことで、何の誰某という名がつけば、その名の範疇でしか、生命が働かなくなってしまうものです。人間というものは、そんな窮屈なものではない、何もの何ごとにも把われぬ存在であって、いささかでも把われがあれば、真の道は隠されてしまい、真の名は、その本性を輝かさなくなってしまうのであります。

老子という人は、把われをもっとも嫌った人なので、老子の教えのどこを見ても、生命の自由自在性を説いております。

この人生を生きてゆきますには、法律のようなものもあれば、宗教の道というようなものもあります。しかし、法律の原則論に把われ、宗教の道というものに把われ切っているような人の頑迷さ、不自由さは、この世のよどみない流れを停頓させ、生命の生き生きとした美しさを汚してしまいます。

宗教の道というのは、神のみ心の現われたところをいうのでありますので、これが道だと指し示したときにはもう、その道は神のみ心の自由性を失っているのです。

これが道だという道は、言葉や文字でいうべき道ではなくして、その人その人の真心から自然と現われた行為の中にあるので、道そのものは変化自在なものなのです。

ですから言葉そのもので、宗教の道を押し付けようとするやり方は、誤った道学的のあり方で、神のみ心の深い味わいをなくしてしまうのです。

各人が行じて、それが自然と神のみ心に叶っている、という生き方こそ、道がそこに現われているのであります。そういう生き方を常の道、真の道というのです。

名にしても同じことで、この世に生まれ、この世の組織の中で生活していますと、種々と名をもつわけですが、そうした現われの名というものは、実は真実の名ではなく、現われの奥に、その人や、その組織の、真実の名が隠されているのです。

その名とは天命というものなのです。天命の一つの現われが、この世の名として現わされているのですから、現われの名のほうにばかり気を取られて生きている人は、真実の名を現わすことは出来ない、つまり、天命を果たすことは出来ないと、老子は云うのであります。

(つづく)

五井昌久著『老子講義』より