(前略)
私は、(中略)息張ってわざわざニコニコ笑っているわけじゃない。当り前のことを当り前にしている。自分の持って生まれた気性をそのまま出しているだけで、別に苦労してやっているわけじゃない。苦労してやってたら、一年もしたらくたびれちゃいます。
持って生まれた性質の中には業もあったんです。けれども、三十才ぐらいの時に、神様に返しちゃった。愛の心も業の心も神様のほうに全部返しちゃって、あらためて帰ってきたんです。
そうすると、業想念のほうはなくなって、神様の光だけが入ってきたわけです。それで、前のいいクセだけを引っ張り出して、ピックアップしてやっているわけ。
そのクセは何かというと、気さくな、素直な、明るい、思いやり深いというもの。それだけは残ったわけです。昔の人が会えば、十五年前の人が会えば、やっぱり昔の五井さんなんです。
ところがどっか違う。何が違うかというと、権威が出てきた。昔の神様にならない前と光が違う。
神様になった、というのはおかしいことではありませんよ。皆はじめから神様なんだからね。誰だってみんな神様なんです。それを知らないだけの話であって、神様になるということは、ちっともおかしいことではありません。
皆はじめから神様なのに、神様の子なのに、自分たちが勝手に、神様の子から業想念の子に引きずり下ろしているだけなんです。その引きずり下ろすものは業想念でしょう。それはどういう想いかというと、自分の心を疑う想い、人の心を疑う想い、世の中を疑う想い……、こういうのはみんな業想念なんです。
ところがこの世の中、疑わなくちゃ生きていけないです。それでいい人、まじめな人、魂の綺麗な人は、世の中が嫌になってしまう。尼さんになりたいけれど、尼さんになるのも大変だ。やっぱり生活しなければならない。それで、嫌々生きてゆくわけです。
業想念の強いような欲張りの人は、人を押しのけて出てゆく。どんどん地位も上がるし、金も儲ける。この世の中で平均してゆくと、お金をうんと持っていたり、地位が高かったりするような場合は、割方業想念の強い人が多い。全部じゃないですよ。お金もあり地位があっても、立派な人があります。比較的多いということです。
貧しくて、貧しさに耐えながら生きている人は、案外清らかな人が多い。それは当り前なんですよ。どうしてかというと、今は業想念の世界だからね。
ところが本当の光が天から地上界に降りてくると、だんだん業想念の世界が消えて、本当の世界が出来る光の世界が拡がった時が地上天国なのです。
(後略)
五井昌久著『講話集〈1〉神様にまかせきる (講話集 1)』より