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般若心経について⑤(完)

(つづき)

そこでその現われている肉体のほうに、あるいは肉体から発生した出来事に、すべてとらわれないで、とらわれたらとらわれたでいいから、消えてゆく姿にして、祈り心の中に入れてしまいなさい、と私は説いているのです。

そうすると(※想いが)入れ代わって、実体(※神性)だけは残ってくる。

生命の実体だけがそこに残って、いわゆる”空即是色”になるわけです。

色即是空の色は虚無である、形ある現われているものはみんな虚無である、これはいいですね。

ただし、それにとらわれてはいけない。

虚無と思ったら、そこにまたとらわれるわけですよ。だから、とらわれたらとらわれたでいいから、それは消えてゆく姿として、世界平和の祈りの実体(※光の響き)の中に入れればいい。

そうすると実体のほうは神さまそのものだから、入れてしまえば虚無を取っちゃうんだから、空即是色になる。

「空の中から現われてくるものが、本当の人間であり、本当の光なんだ、その実体が現われてくるんだ」、とお釈迦さまは説いているわけです。

それを仏教学者というのは、みんな色即是空も空即是色も混ぜて、「虚無なんだ、無いんだ、ここに現われているもの、色というものは無いんだ」、とただそれだけなんです。

無いんだなんて、そんな無責任なことはない。それなら殺したって無いんだから、なんにも無いものなら殺されたって、何したって悪いことはないでしょ。

人殺しがどうして悪いのか、なんにも無い虚無ならば、殺したってなんだって虚無じゃないか。虚無だ無だと説いている坊さんを殺したって、虚無ではなんにも悪くない。無いのだから、殺したことも無い。そういうことになるわけです。

そんな馬鹿なことを言って、この世に通用するわけがない。それは、間違えて伝えているだけなのです。

この世の罪や悪や、間違った想念所業は、要するに神さま仏さまから現われて来ているものではなくて、肉体人間が勝手に作ったものなんです。だから、それは実体の中にはない。

しかし、無いといってもわからないから、一度現われの世界に座を降ろして、一応そういうものを認めて、認めると同時に、過去世の因縁の消えてゆく姿として、神さまの中に入れてしまいなさい、と私はすすめているわけです。

そして祈りの中から神さまと直通して、神さまの光だけを間断なくつぎ込んでおくと、間違った肉体人間の想いのほうは、どんどん消えてしまう。

それが本当の”色即是空、空即是色”なんです。

般若心経の真理は、”色即是空、空即是色”を明らかに説き明かすことにあるのです。

(後略)

五井昌久著『空即是色-般若心経の世界』より