(前略)私は、あまり難しいことをいわずに、みんなが手を伸ばしさえすれば、真実の救われの道に到達でき得る道を開かなければいけないと思ったのです。
そして、私がまず自己自身を守護神に全託して、分霊と守護の神霊との一体化に成功して、今日の霊覚者としての私になり得たのです。そうして守護の神霊の存在が確立し、個人人類同時成道の易行道である世界平和の祈りの宣布を始めたわけであります。
守護の神霊の救済の働きがあって、初めて、人間は神の子の実態が発顕できるのであって、守護の神霊の存在を認めなければ、人間神の子というのは、ただたんなる言葉だけのものになってしまい、「人間が神の子なら、なぜ悪や不幸があるのか」という疑問に出会ってしまうのであります。
人間神の子というのは、あくまでも守護の神霊とのつながりを前提にして言えることであり、守護の神霊を認めぬ人々は、人間神の子の光明を永劫に発顕でき得ないのです。
この汚れきった不調和きわまりなく見える地球世界が、肉体人間の力だけで、どうして平和な調和した世界にでき得ようか、どのように考えてみても、どのような道徳論をふりまわしても、とうていでき得ないのです。
自己のごとく他人を愛し得ないで、自国のごとく他国を愛し得ないで、どうして大調和した世界ができるでしょうか、でき得ないのは、明瞭な事実なのです。
そこに、守護の神霊の働き、救世の大光明の働き、世界平和の祈りの働きが、どうしても必要になってくるのです。
自他の利害を思う想念、自己保存の本能、そうした業想念のすべてを、世界平和の祈りのなかに投げ入れて、日々の生活を行い、政治政策を行うとき、はじめて世界人類の平和の光が射し始めるのであります。
この世の道徳律を超えた世界平和の祈りの生活からこそ、天と地がまったく大調和した道徳が、やすやすとこの世において行われてくるのです。
一日も早く地球を宇宙大調和の一つの世界として、仕上げなければならないのが、私たちの使命なのであり、そのためにこそ、世界平和の祈りが絶対に必要になってくるのであります。
五井昌久著『宗教と平和』より