(前略)世界平和の祈りには、二つの利点があるのでありまして、一つは、肉体人間の想いが、常にこの地上界の業想念(利害損得・喜怒哀楽)に把われていて、ほとんど一日中「ああではない、こうではない」と、業想念世界の渦のなかをぐるぐる回りしていて、小我の想いの絶える時がありませんので、こうした業想念の渦から人間の想念を抜け出させ、昇華させる意味で小我の想念を転化させて、「世界人類が平和……」という広い大きな希望の想いの中に投入させてしまい、一時刻でも小我の想いを忘れ去らせるためであります。
そう致しておりますと、いつしか、小我小欲で悩みもだえている自分の小ささが嫌になり、おのずから大きな心が開いてくる、という利点なのであります。
もう一つは、世界平和の祈り本来の“救世の大光明”をこの地上界、肉体人類の上に導入せしむる利点であります。
人間は本来、法華経にもありますように、仏(神)なのであり、神道でいえば神々なのであります。
本来仏であり、神々であるものが地球界に天降ってきて、物質世界の波動を身にまとって、次第に自己の神性、仏性を忘れ去ってしまったものなのであり、そのために現今のように、個人と個人、国家と国家が傷つけ合い、殺し合って、物質的自国、肉体的自己の利益のみを得ようとして、争っているのであります。
そこで、人類守護の神々が種々な聖者となって、しきりに道を説き、人間に本来性の仏性、神性を知らしめようとしてきたのでありますが、こうした末法の世になりますと、普通の説法ぐらいでは、とうてい人類の滅亡を防ぐことは出来なくなってしまったのです。
どうしても、個人が救われると同時に、人類をも救うという、個人人類同時成道という方法でないと、とても間に合わなくなってきたのです。(つづく)
五井昌久著『宗教問答 (〔正〕)』より