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完全な解脱について②

(つづき)ところが一生懸命”行”をやった、修行した仙人みたいな形の人、行者のような形の人の中には、それは正覚を得た人もありますよ、役行者のような人もいるんだからね。

役行者という人は、山から山へ渡り歩いて、修行に修行を重ねた人で、初め観音さまをまつって祈っていた。

ところが「観音さまにも依存しちゃだめだ!」と、観音像を谷へ捨ててしまって、自分の念力だけで、ついに形が消えちゃうんですね。

屍化仙といいまして、屍を残さないで、いわゆる肉体を消しちゃって、肉体がそのまま霊化しちゃった人なんです。

それほどすごい人です。

役行者ばかりでなく、その弟子にずいぶん屍化仙がいるんです。

しかしそれだけでは解脱したとはいえないんです。

肉体がなくなっただけで解脱したということはない。

自分というものが、”神さまの一つの光の流れだ”ということが、本当に心の底からわかり切らないと、解脱したということにならないんですよ。

分けられた自分という者と神さまとが、分かれていたら解脱にならないんですよ。

いくら神通力があって人の心が全部わかったとしても、ここから姿を消して遠隔地へ飛んでゆけるとしても、水の上を歩けたとしても、岩を何も使わず動かせたとしても、山を動かしたとしても、地震を起こしたとしても、雨をふらせたとしても、それだけでは本当の完全な解脱というわけにはいかないんですよ。

それはなぜかというと、自分の力というものに把われているからです。(つづく)

五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より