自分のやりたいこと、したいことを、他人の迷惑おかまいなしにやりとげることが、本心を現わした行為だと思い違いしている人々が随分いる。
善いといわれる人々でも、感情想念に負けてしまって、本心を見失いがちになってしまうことが多い。神のみ心である本心を現わすためには、玉石混交のいわゆる普通、心といわれている、そういう心だけではどうにもならない。
そこで私は、神と一つの心を本心といい、普通使われる心を想念、或いは想念波動という言葉で、はっきり二つに分けて説明している。そうして、本心は永遠の生命と全く一つのものであって、想念波動は現われては消えてゆく姿としている。
人間はこの消えゆく儚い想念波動に揺り動かされて、妬み、憎しみ、恐れ、争い合っているのであるが、これがわかっていながら、どうにもならないでいるのだから口惜しい。
自己が立派になるのも、社会国家人類を平和なものにしてゆくのにも、この業(カルマ)の波である想念波動に翻弄されていたのでは駄目である。そこで、どんな想念波動でも、それが正義という形で現われようと、善であると現われようと、その想念は一度心の底に鎮めてみて、本心の中に入れきってしまうことが必要なのである。
神道の鎮魂というのはこのことをいうので、人間の霊魂が、幽界を経巡(へめぐ)る想念波動に揺り動かされているようではいけないのである。
私はそれを世界平和の祈りという人類愛の祈りで、本心の中、神の大光明のみ心の中に融けこませて消してもらいなさい、と説いているのである。
自己の本心を乱す、想念波動、つまり感情想念を、一度は必ず祈りの中に入れきって、世界平和の祈りという神と人間との一体化の祈り言の中で、きれいに洗い流してしまうことが、自己を救い、人類世界を救う、唯一の道といえるのである。
そういう業想念をなくさないでいて、正義だ善だといっていても、それは三界を経巡る、輪廻転生的な生き方に過ぎない。真実の世界平和の達成は、人間が輪廻の世界から、本心の世界、神のみ心に入りきることによってはじまり、やがて達成されるのである。
五井昌久著『神への郷愁』より