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宗教の道というのは

(前略)昔の話に、ある坊さんが、他の坊さんと二人で旅をしていてある川に差し掛かった時、その川を渡り悩んでいる女性のいるのに気づき、その坊さんが、「私の背に乗りなさい」と云って、その女性を背負って川を渡ってしまい、渡り切るとその女性を背から降ろして、さっさと歩きだした。

それをみていた他の坊さんが、「おまえは坊主のくせに何故女性を背負ったのだ。女性の体にふれるなどとは、実にけしからん行為だ」と非常に怒って、その坊さんをなじった。

するとその坊さんは、平気な顔をして、「わしはもう背中から女性を降ろしてしまったが、おまえはまだあの女性を背負っておるのか」と云って呵々大笑した、ということがありました。

この話などは、実に面白い話で、心に把われのある人と無い人の差をはっきりと示しておりました。ですから、次々と心に把われをつくってゆくような宗教の道への進み方ですと、やりたい放題の悪事をして、ほんぜんと目醒(ざ)めて宗教入りした大悪人にはとてもかないません。

何故かといいますと、大悪人と呼ばれたような人は、思い切って把われなく物事を出来る性質の人が、過去世からの因縁によって、悪事に入ったので、悪事も思いっきりやったのであります。ですから逆に宗教に入った場合も、いじいじ心をいじめつけず、すっぱりと神仏のふところに入り得るのであります。

宗教の道というのは、本心(神の心)と業想念とをはっきり区別して、業想念をすべて消えてゆく姿として突き放ち、本心ひとすじ、神の心ひとすじに生きつづけてゆく道であるのですから、日々現われてくる業想念の、怒りや妬みや恨み等々の波をいちいちつかんで、自分が悪い、あの人が悪いなどと心をいためつけていることは、およそ馬鹿げた、反宗教的生き方ともいうべきなのです。

神のみ心には悪も不幸も誤ちもあるわけはないのですから、人間は真善美と調和とのみを自己の本ものとして生かし、他のいかなる想念行為も、過去世からの誤った生き方の波の消えてゆく姿と突き放って把われぬようにすることです。そのためにこそ、私の提唱する世界平和の祈りの活用が大事な行事となってくるのです。

五井昌久著『宗教問答』より