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肉体における経験の種々相

(前略)霊魂の在り方と、肉体のあり方の相違、ということについて説明いたしましょう。

霊魂といい、肉体といっても、共に生命の現われに他なりませんが、霊、つまり、生命の根源は、光明そのものであり、生命そのものであって、実体と現象とがまったく一つになっているものでありますが、魂となりますと、生命の実体が、現われの世界にその姿を映し出してゆく段階に入るわけで、魂の階層には種々の段階が出来てくるわけなのであります。

そして霊魂の波動が、地球なら地球の物質界に働きかけてくると、地球人類、つまり肉体をもった、こうした人間が出来上がってくるのであります。

ですから霊魂の世界は、自らが実体であって、現象世界にも住みついていることを、はっきり意識している階層から、霊魂としての現象界だけに住んでいるつもりでいるものもあるのです。

肉体人間となりますと、大半が現象世界だけに住んでいる感じで生活しておりますので自己の本体である神霊界の意識がないのです。

肉体人間としてこの世に住みながら、はっきり神霊意識をもち、自己の肉体を自由自在にあつかえる人を覚者というのですが、そういう人はわずかしかおりませんで、大半がこの現象世界の自己という想念波動に振り回されて、神霊の本心を忘れ果てているのであります。

そこで守護の神霊の方では、この世における幸不幸というより、いち早く、生命の実の相(すがた)を人々に知らせたいと思って、種々な環境にこの世の人間を置いて、修行させるわけなのであります。

ですから霊魂的にはあまり高い段階でない人にでも、神霊波動を感じやすい肉体を纏(まと)わせて、神霊の世界を知らせ、霊魂的のほうの進化の促進を計るのであります。

その反対に、霊魂の地位の高い人に、この物質界の種々相を種々と勉強させたいために、わざと、神霊のことにあまり興味を持たぬような肉体を纏わせて、そのプラスにしようとしたりするのであります。

神々の計りごとはなかなか複雑でありまして、一概にこれがこうだというような判断は下せないのです。

ですから現在は、唯物論的に見える人でも、いつ何時、深い信仰を持つようになるかも知れませんし、知性的で困ったような人が、霊能的になったりするかも知れません。(後略)

五井昌久著『神は沈黙していない』より