(つづき)今までの唯物的な宗教、宗教といいながらも唯物論なのですよ。宗教者同志が集まって話し合ってみましても、話している内に、神様はどこかに行ってしまう。そして肉体の人間同士が話し合うことになってしまうんですよ。
世界平和会議のようなことをしても、神様、仏様というのは、どこかへいなくなっちゃうんです。あれは不思議です。肉体の社会機構の話をする、政治の話をする、社会的な話をする。すると、神様がいなくなってしまう。
あるのは肉体の人間の智恵、才覚なんです。そして必ず、あっちが悪い、こっちが悪いが出てくる。悪いといわれたほうは右も左も、自分はいいと思っている。みんな自分の思想がいいと思ってやるわけです。(中略)
あちらが悪い、こちらが悪い、というような生き方は、我々の生き方ではありません。いいも悪いも、今現われている事柄は、すべて消えてゆく姿なのです。
消えてゆくに従って、本当の平和の世界、神のみ心がそこに現われてくるのです。だからいっぺん、消えてゆく姿がないと現われないわけです。
そこで我々は、自分の中にある悪いものもみんな消えてゆく。社会や、国家にあるもの、人類にある悪いものはみんな消えてゆく、消えてゆくときにはいろんなことがあるけれど、消えてゆくに従って、必ず神のみ心がここに現われてくるんだ。
それが過ち少なく、痛み少なく現われますように、どうか世界が平和でありますように、と言って我々は毎日消えてゆく姿で世界平和の祈りで祈っているわけです。
やり方はやさしいけれど、効果は非常に素晴しい絶大なるものをもっているわけです。それを信じて、どうぞ深くお祈りをつづけてください。(おわり)
五井昌久著『質問ありませんか?〈2〉聖ケ丘講話』より