(つづき)動物の方には自由意志がなく、神さまに創られ、人類の想念波動を受けて、動かされている。そこが違うんですが、魄(ぱく)の世界においては、人間と同じなのです。
だから、人間が肉体人間として、肉体のことばかり思っていれば動物と同じだし、動物より低くなる場合がずいぶんあるわけです。
人間が万物の霊長として、動物を食べていますが、神さまが許しているわけじゃありません。神さまのみ心を、この地上界に現わすために働くことによって、動物が人間の肉体に昇華するということでは許されるのです。
神さまのみ心を現わすことがなくて、ただの肉体人間としての人間であるならば、動物などを食べるのは悪です。豚を食べようが、牛を食べようが、それは悪行為になるわけです。
人間の本来の使命を何も果さないで、肉体人間の自分勝手な生き方をしていることは、人殺しと同じように罪悪なのです。それが許されるのは、神さまのみ心の中にある自分、神さまと一つの自分が自分の本心をこの地上界に顕すための働きをするからです。
そのことによって、動物を食べても許されるわけです。しかし、許されるといっても、動物を食べる場合には、その動物の天命が完うしますように、と祈らなければいけないんです。
世界平和のための働きを、動物は人間に同化して果しているわけです。そういう意味で、動物に感謝しながら食べれば一番いいわけです。
うまいや、まずいや、とただ自分の肉体の満足を得るために食べているのだったら、神の意思に逆らっていることになる。すべてのことを、ただ肉体の満足を得るためにのみやっているんであったら、あらゆることが悪ですよ。
だから、人間は肉体だけだ、という唯物観念だけでは、生きていることがそのまま多くの業を積んでいることになる。
ですから、常にどんな人でも、人間は神の分生命であり、神さまから与えられた使命を完うするために、天命を完うするために、この世に生きているんだ、という観念がないといけないのです。
それをキリスト教などでは、ハッキリいっている。サタンの使いよ、とかいっているんですね。私たちはサタンとか悪魔とかはいいません。自分の業想念といいます。
自分の想いが勝手に自分の悪い運命を作り出しているし、人類の悪い運命を作り出している。
人類を本当に平和にするためにはどうしたらいいか、っていうと、自分の想いがいつも、人類の平和を願う想いで、いつも神さまのみ心の中にいさえすれば、やがては世界は平和になってゆくわけです。
そういう人間を一人でも創らなきゃいけないというのが、この世界平和の運動の趣旨なのです。(おわり)
五井昌久著『内なる自分を開く―本心開発メソッド』より