或る日昱修庵の二階で、五井先生にご相談したことがありました。
「私は子供のころから、友達というものがおりません。それでさびしいと思ったこともありません。しかし人とよい友達になれないのは自分の欠点だと思い、反省しております。が少しも直りません。今後どのように自分を改めればよいでしょうか」とうかがいました。すると先生は逆に、
「私に友達がいると思うかい」とお聞きになります。「いや、先生は全く別格でいらっしゃいますから……。確かに、先生にお友達の存在は少し考えにくいかもしれません」
「そうだろ、あなたも私と同じたちなのだよ。あなたにはこれからも友達はいない。その代わり、まわりは法友だけ、法友と教えだけになる」
それから二十数年がたち、全くおっしゃるとおりになりました。今日では、肉体人間の知己や知遇を求めることもなく、法の友、真理の友、本心本体の友、神様有り難うございますがいえる友との霊身のつながりが、最上、最高、最善の人生だと悟ることが出来ました。
そして一つ思い出しました。五井先生著『阿難』の中の、阿難尊者晩年の説法における、魔訶陀国雨舎大臣の質問に対する答えがそれです。
「雨舎よ、我等は人によらず、ただ法によって結ばれている。我等は共に村邑を遊行し、集う時には法を知れる比丘を請じて教を乞い、そのいうところ清浄なれば、共に喜び、その教を行に現わし、彼の比丘もし誤りあれば、我等は法に随って教う。かようにして多くの比丘は教を一つにし、行いを一つにして水乳の和合するが如く和合しているのである。雨舎よ、私がさきに世尊と等しき比丘なく、依るべき比丘なしというたが、この意味において諸々の比丘は互いに相依り相教え相拝しているのである。人に依らしめれば自ずからそこに情が生じて、教に誤りありても、その誤ちに心づかぬようになる。ひたすら法によりてこそ、威儀を守り、広く学び、友誼を尽し、善を修め、智慧を研することが出来るのである」
法によらず、真理によらず、道によらざる人と人との交わりは、還って互いの進歩を傷つけ損じ合うことがあるものです。
我等もまた、肉体の五井先生に依るのではなく、天なる五井先生の真理に依り、究極なる宇宙神の真理を降ろし、その真理を語り、その真理を想い、宇宙法則の軌道に乗ってその真理を表わすことを、無上の喜びとしているのです。
瀬木庸介著『夜明けはもう間近い』より