(つづき)小言というのは離れています。
愛というのは離れていません。愛は小言を言いませんよ。「ああ、かわいそうに、一所懸命私もやりましょう」こう思うのです。
小言というのは、子供なら子供を別に見る。夫なら夫、妻なら妻を別に見て、「なんだあの子はだめじゃないか」、「あの妻はだめじゃないか」、「なんだあんなことをして」、という風にやるわけなんです。
これはお互いの生命が離れています。もう離れたものだったら、言わないほうがいいですね。
胸がムカムカしているような言葉なら言わないほうがいい。いつでも何か、注意の言葉を言う時には、胸がスーッとしている時にする。ムカムカしている時には絶対に言ってはだめです。
ムカムカしている時には一所懸命祈って、そのムカムカをまずなくして、平心になって、心が平静になったら、「あなたこうしましょうか」とか、あるいは子供に、「お前こうしようよ。お母さんが一緒にやるからね」とか、こういうように言えば、その言葉がそのまま相手に素直に入ってゆく。抵抗がなくなるわけですね。
自分の心臓がいつも揺れ、バクバクしているようであってはだめだ、と私は言うんですね。ですから、心臓がバクバクして言っている言葉か、しないでいる言葉か、ということを考えることが大事だと思うのですよ。
私の教えというものは、人間お互いの生命を自由に生かして、生き生きと生きるということです。
ただ生き生きと生きる手前には、いろいろと過去世からの業があるから、間違ったことをするでしょう。失敗もするでしょう。しかし、それは消えてゆく姿として、赦してあげなければだめですよ、というわけです。
その悪いことがいいのじゃないんですよ。悪いことは悪いのだけれど、悪いことを叩いたら、その悪いことがはがれる場合には叩いたほうがいいでしょう。
しかし、おおむね、カツンとやるよりも、柔らかく、優しく、ジワジワと光を入れて、温めてあげたほうが効果があると、私の経験ではそう思うんです。だから私はあまり怒ったこともないんです。ただ、黙ってパンと拍手を打って、神さまの光を送っているだけですよ。(つづく)
五井昌久著『責めてはいけません-聖ヶ丘講話』より