(つづき)
百万くれ、家を建てたいなど、限定された想いだったら、想いが叶えば消えてしまうのです。
愛深い私にならしめ給え、というのは、どこまで行っても限定はないのです。無限なのです。愛というのは無限に深いのです。
巾の広い人間というのは、無限に広いのです。大人物がいても、またその上の大人物もいるわけです。どこまで行ってもきりがない。
神のような私にならしめ給え、という想いにはきりがない。世界平和の祈りもきりがない。平和もこれでいいという平和はないわけです。無限につづきます。
そういう無限につながる願い言をすれば、それは叶えられ、ズーッと広がってゆく。そういう願い方をすれば必ず叶えられて、幸せになる。
百万円なんてケチなこと考えないんです。神のみ心のごとく生かしめ給え、というような祈りならば、自分は神の分生命で、自分の本体は神の中にいるのだから、自分に必要なお金はいつでも与えられるのです。百万円いる時には百万円、一万でいいときには一万でいい、千万円の時は千万円くれるでしょう。必要な時に必要なものを与えてくださるのです。
ですから私は、お金が欲しい、なんて思ったことはありません。家が建ちますように、なんて祈ったこともありません。「世界人類が平和でありますように、みんなが幸せでありますように、この世に神のみ心が現われますように」そういうことだけです。永遠につながる祈り言というのは、どこまでも深いし、どこまでも広いから、必要なものは与えられる。(中略)
お金が欲しいなんていわないのだけれど、神さまのほうで、この土地が必要だと思って、与えてくださった。この道場が必要だと思って、皆さんが一生懸命作ってくださった。欲しい欲しいといわないうちに出来てしまった。しかし、まだ序の口です。始まったばかりで、私たち(救世の大光明霊団の神々)の仕事から見れば、わずかな小さい小さいものです。
どこまで広がって、どこまで大きくなるか。無限の富を与えられているんだから、私たちは限定して思いません。世界が平和になるためには、素晴らしいお金もいるでしょうし、素晴らしい力もいるでしょう。そういうものが、「世界人類が平和でありますように」というところに含まれているわけです。
だから世界が平和になるための力も富も智慧も、みんなそこに現われてくる。それが時間を追うにしたがって、必要にしたがって現われてくる。そういう祈り方でなければ、本当の祈りではありません。
ただ病気を治し給えと祈って、病気が治るかもしれない。しかし、そしたらお金がなくなってしまうかもしれない。自分の病気が治ったら、子供が病気になるかも知れない。だから、病気を治し給えとか、貧乏を直し給え、お金を与え給え、家を与え給えということは、ひとまず抜きにして、もっと深い神のみ心を現わし給え、私たちの天命が完うされますように、と祈ることです。
天命が完うされるためにお金が必要なら、お金が出てくるに決まっている。健康が必要なら、健康が与えられるに決まっている。それは、神さま(守護の神霊)が知っていらっしゃって、肉体のほうでは何もわかりはしないのです。
(つづく)
五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より