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不幸を契機に運命を開く⑤

(つづき)

ところが守護霊守護神というのは目に見えない。居るか居ないかかわからないが、私が「居る」と言うから居るんだろう、と信ずるだけですね。ところが五井先生というのは、ここに居ます。だから「五井先生を思いなさい」というのは楽ですね。

だから「守護霊も守護神も思えない人は、”五井先生!”と思いなさい」と言うんです。そうすると、五井先生という肉体を通して、神さま(※守護霊守護神)のほうへみんな想いが行ってしまうんです。

この肉体は肉体に見えるけれど、実は光なんです。これは光の柱なんです。光の柱になって、天と地をつないでいるものなんです。

だから「五井先生!」とこっちへ想いが来ると、ここからスッと光のほうへ、神さまのほうへ想いが行ってしまう。それで高橋君はもう、何かあると「五井先生!」と言う。五井先生も言わないで、「先生!」と言う。そういう想いでもってついに、何ヶ月かでもって、その大病を克服したんです。

これはちょっとした奇跡なんですよ。三つの結核でもって、死ぬか生きるかだったのが治って、ちゃんと働いて、毎晩こうやって遅くなっても何でもない、という身体になるということは、ちょっと考えられないことなんですね。そういう奇跡がたくさんある。それで高橋君の場合は、顕著なる事実なんです。

それは、全託の心、「み心ならば、み心ならば」と言って、お任せした、そういう全託の心にあるんです。だから全託さえすればいいんですよ。神さまに全部の運命を任せるということが、一番大事なことなんです。半分任せるというのはダメなんです。全部任せないといけない。高橋君の場合でも、半分だけ任せたり、一家が全部任せなかったら、高橋君は死んでいるんです。ところが全部任せたから、きれいに治ったというわけです。

皆さんでも、どんな病気でもかまわないどんな貧乏でもかまわない。どんな自分の性格が悪くてもかまわない。悪い性格も、病気も不幸も、全部任せるんです。

自分で治そうと思ったり、自分でとやかく思っちゃいけません。

自分というのは、即ち無いんです。

自分というものは、消えてゆく姿なんです。

自分だ自分だと思う、その自分は消えてゆく姿なんです。

いいことをしようとする自分も、悪いことが出てくる自分も、すべてそれは消えてゆく姿であって、”在るもの”は、神さまの子としての自分(※本心、神性)なんです。

(つづく)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より