スポンサーリンク

真に把われなき心で叱れる大人たれ(後半)

(つづき)いつも言うんだけれど、自分の心臓がバクバクして怒ったんじゃあ、そりゃダメですよ。意見にもなんにもならない。自分のいのちを粗末にしているだけだからね。心臓を悪くしてしまいます。

冷静な立場で怒鳴りつけるのはいいですよ。心臓がバクバクしないで、感情的にならないで、「このバカヤロウ!」と言ったっていいんですよ。

それは把われてないんだから。相手の業を吹っ飛ばすために言うんだからね。

かつと同じで、こっちを傷めないんです。いのちも痛まない。強い言葉で言っても、愛の言葉だからです。

愛の言葉か、自分の感情か、というのを計るはかりは何かというと、心臓を見ればいいです。

心臓がバクバクしないで、怒鳴ったり、叱言こごとを言っ他場合には、それは効き目があるんです。感情ではなく、神のひびき、光がピューッと飛んでゆくのだから。だから同じ叱る言葉でも、叱る当人自身で判断できますね。

親が子どもを叱るのでも同じです。叱っている方が息が絶えそうになって、子どものほうはケロッとしている、そういう風景がずいぶんありますね。まず自分の心臓が平静であるように、心乱れないようにして、叱るなら叱ったらいいと思います。

その練習なんですよ。それが消えてゆく姿なのです。「ああ、消えてゆく姿なんだな」と思ってやるならなんでもないです。

自分が神様の立場になって、自分の本心の中に入って、そして行いに出るものでなければいけない、ということです。

自分が一度、本心の世界、世界平和の祈りの中に入って、神様と一つになって、それでサーッと出てくるものなら、それは相手を傷めません。

光がパァ-っと入ってゆくんだからね。そういうようなことを、私はいつも思っているんですよ。(後略)

五井昌久著『講話集〈2〉みんな救われている (講話集 2)』より