(つづき)また他方、現世利益になりますと、病気を治すために神さまに頼む、貧乏を直すために頼む。
そうすると、実際にお金が儲かるかも知れない、病気が治るかも知れない。しかし、いつも誰かに頼って、心がずるいことばかり考えているわけです。
永遠の生命を出すのではなくて、何かいつもご利益だけをもらいに行く、ご利益のために神さまを信仰してゆく、そういう打算的になるわけです。これは唯物論と同じこと。
現世利益ばかり願っているということは、魂が立派にならないことです。生命の力が増さないのです。
いつもうまい汁を吸おうとしている。
その場その場はいいかも知れないけれども、その人の魂の面から見ればマイナスになり、やがて必ず、それを返さなければならないときが来るのです。7
例えば自分が一つのものしか得られない因縁を持っているとする。それを神さま(守護の神霊ではない、幽界の生物が応援してやってくれる)に頼んで、十もらったとすると、九というものは自分のものではない、借りなのです。
借金ですから、いつか必ず返さなければならない。いっぺんに取られるかも知れない。そういうことをしていたのでは、自分の生命が自由に生きられない。いつも借金して生きているようなものです。
だから、そういう教えも半端だということになります。
私はどういうことを考えたかというと、”本当の真理の教えもそのまま行なえ、しかも知らない間はご利益もある”、ということを教えなければならないと思った。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より