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消えてゆく姿と、このままでいいということの違い


このままでいいんだ、という教えは今までも承わってきましたが、安心するには”このままでいい”というより外にないと思っているのです。このままの生活以外しようがないという意味は、一つは度々教えられるように、現在の生活は今しているんじゃない、過去のいろいろな想念行為というものが、消えるために現われておるんだ、消えるんだ、つまり影であるんだ。だから自分でどうこうしようといったってしょうがない。過去の因縁性であるんだから、仕方がないんだからこのままでいいんだ。自分のどうにもならない事柄に対して、これは過去の影なんだから申し訳ないけど仕方がない、といって自分をゆるす。また、人の行いを見ても、あれもやっぱり過去世の因縁の為にああやっているのだから、これをゆるす、という風に、理解・承知しておったのですが、間違っているでしょうか?


ある面では本当です。しかし、今の質問のままでは誤解があるといけないから言いますと、「消えてゆく姿」というのは、あくまでもこれはいけないんだという、否定があって”消えてゆく姿”なのです。

人間は神の分生命であり、光明燦然たる存在、円満完全なのであるから、神がすべてのすべてであるから、神のみ心以外のものはすべて”消えてゆく姿”なのです。

だから神のみ心以外の想いが出てきたら、「ああ、これは間違っているのだ」という否定の心が出てきます。ここから消えてゆく姿が出発しているのですよ。

たとえば青酸カリを飲んだら死にます。青酸カリが入っている水だとわかれば飲まないでしょ。「青酸カリだからいけないな、いけないな」と飲む人はありませんね。これはハッキリしています。

けれど、過去世の因縁の消えてゆく姿の場合には、今の現われている想い、行為は仕方ないんです。これは抑えようがない、現われてきてしまうのだから……。しかし、そのときが一番大事なのです。

「アー、それでいいんだ、仕方がないんだ、消えてゆく姿だからどうしょうもないじゃないか」と何もしないでいると、これは現われてきたことをそのまま認めたことになります。

「怒りっぽい性質だ」「妬みっぽい性質だ」「盗みをする習癖あるんだ」「前世の因縁で仕方がない」と思うだけでは、ただ認めただけで消えてゆきません。認めたことはつかんだことと同じなのです。「仕方がないじゃないか」、とつかんでしまうのです。

そうすると、過去世の因縁が消えないで、そのまま、とどまってしまうのです。その上にまた現われてくるから、積み重なって、ぐんぐん増えてゆくことになり、輪廻転生してしまうのです。これでは解脱できない。

そこで、私はそういうことではなく、ここに過去世の因縁が現われてきた場合、「ああ、これはいけないんだな、しかし過去世の因縁で仕方がなかったのです。ごめん下さい、すみません。これからは同じことを二度としません。」と自分の本心にわび、人にわびる。それで一つ業が切れますよ。(中略)

更に、「どうかみんな平和になって、みんな本当に神の心が現われますように、どうか神さまお願いします。世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされますように」と守護霊、守護神さんへの感謝の心と敬虔な気持で祈ることによって、”消えてゆく姿”が成就するのです。

こうしますと、すぐ悔い改めが出来ているわけですし、再び自分はしないと、青酸カリ(業)は飲まないと、神の心の中へやっちゃったわけです。そこで初めて消える。光の中で消してもらうわけなのです。

消えたあとに何が残るかというと、世界を救おうと思って働いている神々の救世の大光明が入れ替わりに入ってくるのです。世界平和の祈りをすると、業が消えたと同時に光が入ってくる。

業と光を引きかえにするわけです。
そこに回向(えこう)が生まれる。

そうすると、今までの業がひと回り消えるわけですが、業というものは、過去世からずっとあるから、何べんも何べんも出てきます。ですから、繰り返し繰り返し回向をつづけていると、だんだん正覚に近くなってくるのです。
そういう努力が必要なのです。

過去世の業が消えてゆくにしたがって、光が入ってくるから、それにともなって富もくるでしょうし、健康も与えられるでしょうし、幸運もやってくるのです。それが消えてゆく姿の教えなんです。

五井昌久著『質問ありませんか?―聖ケ丘講話』より