(つづき)例えば、発明がある。
99%は出来ている。
あと1%がどうしても解けない……。
その発明は完成してないわけです。
そうすると、全然何も考えてないことと、99出来てるけれども、一つ足りないということは、やっぱり効果的に同じことなんです。
役に立たないんだからね。
テレビがある。
けれど真空管が一つなかったというのと、全然テレビが置いてない家と同じでしょう。
それと同じですよ。
かえって使えないんだから邪魔かもしれない。
使えないものは無用の長物でしょう。
だから、使えないことをやってもしょうがない。
使えるのは何かというと、完成品です。
ズバリ完成品を持ってこなければ、何の役にも立たないでしょう。
今はズバリ完成品を持ってくる時代なんです。
コチョコチョ小さい修行なんかしなくていいんです。
修行といえば、日常生活であらゆる修行をしているわけです。
子供が病気になったり、夫や妻が病気になり、自分も病気になったり、貧乏になったりするのは、大変な修行なんです。
それが修行なんだから、わざわざ昔のように山にこもったり、滝に当たったりする必要はない。
そんなにして体をいじめる必要はない。
それよりも、どれだけ神さまのみ心に任せられるか、「ああ、これで生きて生きても死んでも、神さまが生かしてくださるんだから、これでいいんだな、どんなに悪いことが現われても、それは消えてゆく姿なんだな」と、何でもかんでも神のみ心の現われだということを肯定出来るような、すべてに感謝出来るような、そういう心になることが、修行の修行の最大の修行です。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より