(前略)別項でも神霊と人間の関係を書いていますが、こういう説明はとてもむずかしいことなので、何たびでも、なるべくわかり易く説明してまいりましょう。
最初に大生命、宇宙神が人類として、自己の分生命(わけいのち)をつくるその基に、七つの直霊として分かれた、という説は、いつもしていることですが、その直霊から分かれた古い分生命方は、今日では、神界霊界肉体界の各階の各種の経験を経て、基の直霊の中心で、神々として、宇宙神の手足となって働かれておられるわけで、その中には、人間各自の守護神として働かれている方もあるわけですし、各星々の中心者として働かれている方々もあるわけです。
そして、現在肉体界で働いている分生命である人々の中にも、古い分生命、つまり直霊の中心の光に近い分生命として生まれてきている者もあり、これは天使あるいは菩薩というように、地球人類の救済のために、自分から願って、苦しい肉体世界の生活に飛び込んできている人々なのであります。
ですから、天使、菩薩のような、汚れのない浄まった生命の働きをしている人々から、過去世において、生命を汚しきって、その幽体に悪業想念がこびりついている人もあるわけですが、生命そのものは、いずれも大生命の分生命には違いないのです。
分生命の中に、個々の心もあれば、想念波動も生まれてくるのでありますが、天使や菩薩や、高い霊界から来ているみ魂たちは、生命そのものが自分であり、その生命の親が宇宙神であることをよく知っているのであります。そして、常に、自己の生命を汚さぬように、宇宙神との一体化を計って、働きつづけているのです。
ところが、幽界の汚れた想念を一杯つけている人々は、汚れた波動の世界が人間の世界であり、汚れたままの肉体波動が自分であると思い誤っていて、天地に貫いて働いている生命そのものが自分である、ということがわからなくなっているのであります。(中略)
肉体内のある自己、即(すなわ)ち自己の生命は、ほんの一瞬のものであり、生命の働きの末の場であって、自己そのもの、生命そのものは、神霊の世界において、自由自在に働きつづけているものであることを、現在の地球人類の大半は忘れ果てた肉体人間観に終始しているのです。(中略)
人間は自己の生命が、神霊の世界から肉体世界まで、碍(さわ)りなくすうーっと働いてきているか、神霊の世界から幽界を通ってくる途中で、幽界の汚れの中で動きがにぶくなり、幽界の汚れをたくさんつけての肉体界での働きになるか、これは過去世からの各自の因縁因果によるもので、それは現在としては運命的に定まったものなのです。
しかし、その運命を回転(改善)させるために神々は、人間一人ひとりに守護の神霊をつけて下さっているので、その守護の神霊と一つになることにより、過去世の因縁によって生命にこびりついてきている、幽界の汚れも次第に浄められてゆき、本来の神の子の生命そのままの自己に立ち還えることが出来るようになるのであります。
五井昌久著『聖なる世界へ』より