宗教の教えをきいている人は、とても偏(かたよ)る人が多くて、神さまにおまかせすればいいんです、全託なんですと言うと、全部おまかせしてしまったような気持ちで、やるべきこともやらないで、常識的にやらなければならないこともやらないで、悠々としている人もあるんです。
それはおまかせじゃない。やるべきことはやらなければいけない。
ご飯は炊かなけりゃ食べられないのに、自然に炊けちゃって、出来ちゃう。どこからかお金でも飛んで来て、なにか奇跡的にパッと現われるような感じがしている。極端な言い方だけど、そういう人があるんですよ。
おまかせするということは、神さまの中に入ることです。
神さまのいのちは生き生きと動いているんです。そして、すべてを生かす働きをしているんです。
そこへおまかせすれば、すべてを生かすために、働かなければいられなくなる。動かなければいられなくなる。
日常生活というのは、基本的なことです。誰でも当たり前の、人がやることをやるわけです。宗教を真実に行じていれば、当たり前のことをやっていて、当たり前以上になってゆくわけです。(中略)
当たり前のことを標準にして、当たり前以上に動いていなければ、これは宗教精神として、立派だということにはならなんです。
当たり前の線が一つあって、それをいつの間にか超えている、そういう生き方に自然になることです。
それを日常生活を放り出して、ただお祈りだけでいいわけがない。日常生活もちゃんと出来るということでなければだめです。私はいつもそれを気にしているんです。
凝っては思案のほかといって、凝りすぎては困る。といって、ある程度の熱意がなければ何も出来ない。だから、熱意を持ちながら、しかも把われないで常識の線に生きながら、常識を超えてゆくと言いう生き方を教えているわけです。
世界平和の祈りを本当にやっていれば、自然にそうなってくるんですよ。おのずからそうなる。そうならなければ、それはどこか違っているんだ、いけなかったな、と考えて、平和の祈りのやり方をやり直してみるといいです。
五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より