(前略)神仏という言葉をひとまず使わぬこととして、祈りを説くことに致します。まず野山に眼を向けてみましょう。
山々に生い茂る大木、野に咲く花々、これはいったい誰が植え育てたのでありましょう。自然に植え、自然に育ったというより他はありますまい。自然の生命がそのまま、野山に生い茂り咲き盛った、ということになります。
生命がそのまま、天地の恵みに合一して自らの力を木々として伸び育ち、花々として咲き盛っていったのであります。この姿が祈りの姿なのです。
生命のそのまま、生命の光がそのまま輝いているのが祈りの姿なのであります。そしてその姿は美しくもあり、厳粛荘厳でもあるのです。
しかし、そうした野山に植物が生い茂っているだけでは、人間の住むところがありません。人間がこの地上界肉体界に住みつくために、こうした天地を貫いていた祈りの姿を、横にひろげる活動をはじめたのであります。
そのため、木を切り、花をぬきすて、そこに人間中心の住居をつくりだしたのであります。こうして、地上界の横の活動がつづけられ、今日のような文明文化の世界ができあがったのであります。
人間も最初は植物同様、天地を貫いた祈りの姿で生きていたのでありますが、人々の増加につれて、どうしても横のつながりのための活動をなさねばならなくなり、ついに今日の文明文化の社会になってきたのでありますが、横のつながりが充実し発展してくるに従って、人間本来の天地のつながり、縦のつながりが薄れてきて、肉体人間という人間に自己限定してしまったのであります。
そう致しますと、太古のような天地を貫いて生きていた霊的人間、祈りの姿の人間が次第に光を薄めてしまって、物質的な人間に成り切ってしまったのであります。
ここが非常に問題なところでありまして、地球文明が発展するためには、どうしても、一度は肉体人間としての横の広がりのための活動をしなければならない、横の活動を推進しているうちには、いつの間にか縦のつながり、生命の根源とのつながりを忘れてきてしまう、ということが必然的になされてきてしまったのであります。(つづく)
五井昌久著『愛・平和・祈り』より