(つづき)愛でもって、相手の立場に本当になって、「ああ、そうだなあ。あなたの立場になればそうだなあ。仕方がないな、勉強するの嫌だろうな。お父さんだって勉強するの嫌なんだ、面倒くさいから。嫌だけれども、やらなければ偉くなれないだろう。だから一所懸命やろうよ。一緒に協力してやるよ」、という風にやれば、なんだか味方になったような気がして、勉強するでしょ。
それをたいがいの場合、夫でも妻でも、先輩でも後輩でも、みんな(自分が上に立って)教えようとするのですよね。「あなた間違っている。それじゃだめじゃないの」とこうやるわけ。
間違っているといわれると、その間違ったことにつかまっちゃうわけね。どうせだめだ、おれはてなことになってしまう。
そういうように業につかまらせてはだめだから、業をとることをみんながやらなければならない。
自分の業も消すんだし、人の業も消すんです。
消すためには(中略)守護神さんよろしくお願いします。あの人の天命が完うされますようにという心でもって、「あなたこうしましょうよ。私も一緒に一所懸命やりますよ」というようにすれば、うちの家内が一所懸命応援してくれる、うちの夫は応援してくれる、うちの子供が応援してくれる、うちのお母さんは応援してくれる、という風になって、自分の力が倍加してゆくわけですね。
夫と妻の間でも、親子の間でも、離れてはだめですね。別な人間になってはだめです。
生命というのは一体だから、一体の境地にならなければだめでしょ。(つづく)
五井昌久著『責めてはいけません-聖ヶ丘講話』より