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就寝中に見る夢について

(前略)夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。

想念は(のちの運命環境となって)必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情欲の業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる個所に展開されていることは明らかである。

この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが、守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。

現われれば消えるのが想念(おもい)の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。

肉体世界に現われた(思い出してしまった)場合は、その現われが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが、(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆくのである)夢の場合はその想念(おもい)が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念(おもい)は再び幽体に記録されることはない。

その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。たまたまはっきり覚えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画(え)がやはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。

フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性欲(リピドー)の現われと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。

判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢として現わして、消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。

このことを知ることは大きな救いになると思う。この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。(後略)

五井昌久著『神と人間―安心立命への道しるべ』より