人間の世界では、とがめることは何にもないんですよ。自分をとがめることもないかわりに、他人(ひと)をとがめることもないんです。
ところが宗教をやったり、修養をやった人に限って、とがめてとがめて、とがめっぱなしなんです。他人のことばかりとがめて、自分のことはちっともとがめない。(中略)
みんな他人が悪くて、自分はちっとも悪くない。そういうことはないですね。他人の悪いものが映ってくるのは、自分の業も消えてゆく姿なんです。
ということは、もっと深くいえば、自分も他人もないんです。
自分というものも、他人というものも、これは一つなんです。同じ神さまのいのちをお互いに分けられているんです。
だから元をただすと、みんな一つのいのちなんだから、他人が悪いことをした場合には、やはり自分もその一部を負うんです。
たとえば戦争なら戦争があったりした場合には、二十何億(講話当時の人口)全部の共同責任なんです。いいですか、その業の世界においては共同責任です。
本心の世界では誰も悪くないです。それですから、本心というものと業想念というものをハッキリ分けなきゃいけない。
それで、いつも自分はどんな想いが出てきても、他人がどんなことをしても、それはみんな業の消えてゆく姿であって、自分の中の本当の自分も、向こうの本当のその人も、みんな悪いんじゃないんだ、みんな消えてゆく姿なんだ、ということから、本当の世界平和が出来るんです。(後略)
五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より