一般に人間はどうも思い違いをしやすい生物で、この世界の騒乱や混迷は、自分には責任もなく、他人が起こしたことであり、国や社会が作り出したものである、と思っている。
そして、すべてのマイナスを他人や社会や政府や、他国家の責任として、不平不満のありったけを言い、鋭い批判をする。それでいながら、自己の行ないを正しくし、平和の方向に想念を向けることを一向にしていないのである。(中略)
この宇宙の在り方というものは、一つの法則によって支配されているので、自分の出した想念波動や行為が自分に返ってくる、という法則も厳然としたものなのである。
だから、この地球世界が戦争や天変地異や公害や、その他諸々の不幸災難を起こしているということは、その地球に住む、すべての人の想念行為の中に、そうした原因があるのであって、他人や他国にあって、自分や自国にはないのだ、ということはいえないのである。
その理(ことわり)を知らないで、ただ現われた現象面だけを非難し、弾劾(だんがい)して、その現象面だけを直そうとしても、それはただ一時その現象が引っ込んだりすることはあっても、完全に直ることはない。
この世を完全に平和にしたい、争いや不幸のない世界にしたいと思うなら、先(ま)ず自分の想念行為を平和にし、調和したものにする方向に向けてゆかなければ、どうしようもないのである。
真の平和運動というものは、そういう考えを基盤にして、はじめて成り立つので、いたずらに他を誹謗(ひぼう)し、非難しているようでは、業の輪廻(りんね)になってしまって、宇宙の正しい法則に、地球人類を乗せてゆく運動にはならないのである。(中略)
現象面に把われすぎた想いでは、真の祈りは出来にくいのである。
平和をつくる心とは、神の愛を信じて、自分を平和な心にして、世界の荒波に処してゆく心なのである。
五井昌久著『心はいつも青空』より