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真理の光に照らされた生活⑨

(つづき)そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りのような、日常生活そのままで安易にできるし、なんの規則も把われもなくできる方法で、個人の観の転換をはかり、世界人類の業想念波動が知らぬうちに浄まってゆく方法を実行し始めたのであります。

心ある人がみれば、現在の世界情勢というものは、いつ日本が戦火に見舞われるかも知れぬような状態であり、世界大戦が開かれるかもわからぬ情勢にあるのですけれども、一般大衆の心には、まだそうした情勢は、はっきりとつかめていないので、眼前の自己の生活だけにつかまっていて、その他のことに眼を向けるという気持ちにはなっていないのです。

だれかがどうにかするさ、米国も中国も馬鹿じゃないから、本格的な戦争になるわけないさ、という、なんにも成算のない安易な気持ちで、そういう面倒くさい、嫌な問題は横にそらしてしまうか、自分たちがどうしたって仕方がないさ、というように、自分たちに関係のないことのように、無責任に他に転嫁してしまうかしているのです。それでいて、心は常に不安動揺しているわけです。

個人の生活はどうしても国家の安否にかかわってきます。国家の安否は世界情勢に深いつながりがあります。

私がいつもいうことなのですが、現在の個人の生活は、常に国家や人類の運命と直接つながっているもので、国家や人類を離れた個人の生活は、実はあるようで無い生活なのです。

ですから、国家の歩んでゆく方向は、直接、個人の運命に関係してくるのです。

そこで嫌も応もなく、個人個人が国家や人類のことを考えなくては、自分の身が立たなくなってしまうことになるのです。

そこのところが、一般大衆にはまだわからず、眼前の自己の利害に関する国家の動きや、社会情勢だけに関心を示すのであります。

例えば、選挙などで、知合だから一票投ずる、義理のある人から頼まれたから投票する、というようなもので、その人の人格とか思想とかを一応問題にしないような場合も随分多いのです。

そんな眼先のことでなく、もっと深く、自己の生命の存続の問題にまで、深く眼をとめて考える習慣をつけなければいけないのであります。(つづく)

五井昌久著『光明をつかむ』より