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真理の光に照らされた生活⑧

(つづき)日々座禅観法をしたり、断食したり、山にこもったりするならむずかしいが、日常茶飯事そのままで、日常生活そのままで、ただすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に想念を投入してゆくだけなのですから、これを易行道といわざるを得ないのです。

現代の人間というものは、むずかしいこと、面倒なことを、毎日つづけてやるという習慣が欠けていまして、座禅がよいといって、毎日座禅を続けきれる人は少ないし、ヨガの呼吸法など、ずっとつづけてやれば効果があるはずなのですが、少しやるとやめてしまうし、健康体操などでも、なかなか長つづきしないようです。

それがただ生活のためとか、一つの規律に縛られてやらされる場合とかは、嫌々ながら、どうにかやりつづけることができるようなので、一般の人々には、生活費を得るための他は、規則だった修業などはなかなかつづかないのです。

中国を見習って、国家のために自我を抑えなさいとか、安易な生活をやめよといっても、現在自己の身に迫っていない限りは実感として、それに対処しようとする気構えにはならないのです。

自己の身に現在ふりかかってくる事柄に対処するとか、それをやれば実際的に金銭的な得や、地位向上のためになることが、はっきりわかっているようなことなら、進んでやるのですが、未来に、しかも来るか来ないかわからぬ事態に対処するという心構えには、どうしてもなれないようです。(つづく)

五井昌久著『光明をつかむ』より