(つづき)なぜかと申しますと、この世では虚色の着物を着られるのですけど、あの世ではその人々の想念の波そのままが、その人の生活環境となって、自他共にはっきりみえてくるのですから、虚色は虚色として、虚勢は虚勢として、そこにうつし出されるわけであります。
あの世は嫌でも悔い改め、反省せざるを得ない世界なのであります。それが地獄、極楽といい、閻魔の庁といい、照魔の鏡という、仏教の話の実態なのであります。
人間には、どのように自己欺瞞しようと、自分の放っている想念波動がありますので、いつかはその想念波動の通りの環境を自己の上に現わしてくるのですから、現在、自己の持っている賤しい貧しい想念の世界とはまるで異なる、富んだる豪華な環境に住んでいようとも、それは過去世における積徳が現われて、そういう環境を生んでいるのであって、現在の想念波動のためではありません。
現在の想念波動の世界は、そうした過去世の善徳が消え去った後に、今度は如実にその姿を現わしてくるのであります。
これは善悪ともにいえることでありまして、いかに貧しい生活にあろうとも、賤しい貧しい想念を起こすものではないし、どのように富んだ恵まれた生活環境にあろうとも、驕り高ぶった行為や、他をさげすむ想念波動を出したりするものではありません。
それらの環境や想念は、みな過去世からひきつづいてきたもので、やがては消え去ってゆき、現在の想念行為の波動が、形となってこの世の生活に現われてくるのであります。
ですから、どのような地位環境にあっても、常に明るい柔和な調和した想念を持ちつづけていることが、よき地位環境をそのまま持続するし、悪しき貧しき環境はやがて消え去って、ずっと持ちつづけている明るい調和した環境がその人の世界にひらけてくるのであります。
そうした善き想念を持続してゆける方法が、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのですから、一日も早くこの道を自己のものとして生活してゆくことが、その人にとっても、国家人類にとっても大事なことになるのです。(つづく)
五井昌久著『光明をつかむ』より