自分が巾の広い、豊かな、愛に満ちた立派な人になるためには、どういうふうな心がけで、どういうふうに行なっていったらいいか、ということをお話しましょう。
一番問題なのは、”自分”という、それも肉体の自分という観念が多ければ多いほど、愛は乏しくなるということです。どうしても自分が主になりますから、自分の立場、自分の感情というものがあればあるほど、その人は狭い気持ちになります。
根本的にいえば、自分というもの、肉体にまつわる自分という感情というものをなくしてしまうことが、一番いいことなのです。しかし、それをなくすことはなかなかむずかしい。
しかし、真実の生き方というものは、自分というものは神さまがここに天降ってきて、要するに分生命としてここに来ているのだ、自分は神の子なのだから、そして相手もみんな神の子なんだから、お互いが神の子を出し合って、この地球世界に地上天国を創るように役目づけられて、生まれてきているのだ、だからみな、神々の分生命が気を揃え、力を合わせれば、地上天国が現われるのだ、自分もそういう一人なんだから、より大きく神さまの光を現わそう、と理屈的にはこうなるわけです。
いいかえれば、自分は神の子なんだから、愛深い人間でなければおかしい。立派な愛深い、思いやりの深い、巾の広い人間にならなければ、自分は神さまのみ心を汚すのだ。だから、より巾広く、より愛深くなろう、という決意が必要なわけです。それが信仰の第一歩なのです。
自分のご利益で、自分が幸せになって……自分が自分が……というのでは、信仰でもなんでもないのです。それはご利益信仰といって大したものではない。そういうところから入ってゆく人もあります。
入ってゆくどころじゃなくて、ずいぶん多いけれど、究極は神のみ心をこの地上界に現わすために、自分が生まれているんだ。神のみ心とは何かというと、愛であり、調和である。だから愛をよけいに行じ、調和になるように自分が動くことが、一番自分の置かれた立場にふさわしいんだ、というふうに、常に自分で思うわけです。
それを簡単にいうと、「神さま、どうぞ愛深き私にならしめ給え」と祈ることです。私はそれをやっていましたが、「愛深い私でありますように」とやっていますと、自然に愛の深い、巾の広い人間が出来るわけです。ですから、実行方法として、やり方としては、そういう祈り言が一番いいのです。(つづく)
五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より